「恋雨」アニメ10話考察感想メモ/あきらの笑顔の意味/燕と「三千代」

「友人として」

実にこう、恋する少女モードの「友人」…。

「お前のような惚れ顔の『友人』が居るか!」とかいう某拳士の言葉が聞こえてきそうな、きなさそうな。

という訳で、1日遅れですが、「恋は雨上がりのように」アニメ10話「白雨(はくう)」を見ました。
相変わらずクオリティ高いなというか、とかく味わい深い作品だなぁと思う訳ですが、ちょっと考察っぽいことを少しだけメモに残しておこうかと。
というか、一番気になったのは「それから」の件というか。

という訳で、色々とメモしていこうかと思います。

あきらの「笑顔」

というか、とかく再構成がとてもよくできている感じの作品でしたね。
あきらをほったらかしにしてしまったことについて、本来原作では一瞬だけなじる(ように近藤には感じられる)表情(本当にヒトこまだけですが)もしたりはしたのですが、メールでのやりとりを挟み込むことで、その意味合いを変え、あきらをあの笑顔にさせる。
あらかじめ店長に、「世界一短い手紙」の意味を語らせた上で。

「信頼関係ができてたから、たった一文字でも意思疎通ができたんだ」

二人はもう、信頼関係で結ばれている。それを確認できたからこその、笑顔。

「多分、もうすぐ戻ってくると思います。」

互いのことを、良くわかっているから言えるセリフ。「あたしは、店長のこと 何も知りません。」そんな悲痛な、絞り出すような叫びから、ここまで来た。この小さな微笑みに、そんな喜びを見てしまうのは、考えすぎでしょうか。

というかもう半分嫁ですよねこれ。

(おまけ1)嫁モードあきら?/もしくは成長の証

今回の話、古本市のシーンであきらが近藤の行動に受容的な、というか微笑ましく見守る的なシーンが多い構成になっていました。

おそらく本に夢中になって姿を消してしまった近藤。
だがあきらは、その夢中になった姿を思い起こし、まぁいいか、とこの笑顔をする。

邪魔をすまい、と配慮をする。

また、その後、謝罪する近藤に対して、

「そういうことって、誰にでもあると思うので」

といって笑い、さらに、謝罪をやめさせるのではなく、

「何かいい本買えました?」ごく自然に話題を変える。

尚、このシーン、細かな話を言うと、原作と順序が逆になっています。その為、あきらがその辺りに配慮して行動しているというのが、原作よりも明示的になっています。(もしくは、原作よりも(物語の終盤であることもあり)精神的に成長している。(原作は、5巻目37話という物語の中間地点であるのに対し、アニメは12話中10話目という後半地点であるという違いがあります))

これって、あきらが単純に近藤にとっての「都合の良い女」になろうとしているのとは違うと思うのですよね。

あきらは、近藤のことを知りたいと思っている。そして、共に行動し、相手にとって価値のあるものは何か理解して、また、無暗に相手の邪魔をせず、タイミングを計ろうとする。

はじめて近藤を半ば強引に「デート」に連れ出した時、あきらには、近藤に配慮をする余裕はありませんでした。もちろん、一人の少女の初デートにそれだけの精神的配慮を要求する方が無理とも言えるかもしれませんが、とかく、近藤を連れまわすだけで終わってしまった。映画の感想についても、きちんとした共有は出来ていなかったし、カップルであふれているだろう喫茶店にいきなり連れていくというのもその一例でしょう。(原作で近藤は、「もしかして… エンコ―…」といった周囲の誤解の視線に耐え切れず喫茶店を出てしまいます。)
だからこそ、近藤の方も、これで終わったかな、という誤解の印象を抱いたとも言えます。

その時に比べると、あきらは相手を理解しようとし、尊重しようとし、その上で、ユーゴーのメールに被せるような、ちょっとした遊びのある、心の交流をも楽しもうとする。

あの嵐の夜の「ハグ」で、近藤から安心を与えられたこともあったのかも知れない。とかく結果として、あきらはそれだけ成長している。

上のそれぞれの画像、余裕を感じさせるというか、とても大人びていていい感じだなぁ、などとも思うのですが、どうでしょうか。

(おまけ2)その他の古本市シーンの小ネタなど

店長が頼み込んで購入した本は「ラパチーニの娘」。ナサニエル・ホーソーン短編だそうです。
ただし、これはアニメ独自描写。今後のネタバレに絡むかもしれないので、詳細を知りたい人はぐぐって頂きたいのですが、一言でいうと、悲恋…。

https://eow.alc.co.jp/search?q=quinze

quinze
【名】
〈フランス語〉《トランプ》十五◆フランスで18世紀に流行したゲームで、ブラックジャックに似ているが、合計得点が21ではなく15を越えないようにするもの。

フランス文学絡みのネタなんでしょうか…?

救済と後押し

さて、アニメと原作の違いで、あと気になったのは、ラストの「それでもいい」のやりとりでしょうか。店長のかつての家族の描写等、独自描写も色々とあった訳ですが、気になったのはそこで。

前回のブログ記事での触れたあたりの話です。

もうすぐ最終回ですね、ということでここ2回ぐらい連続で記事を書いていた訳ですが、 いくつか書き残したな、ということもあったので、今...

さて、アニメ10話のラスト近辺で、近藤はこう語っています。

許されたい、なんてそんな大げさなことじゃない。
けれどずっと、誰かに言ってほしかった。
「それでもいい」と。

ここの部分、原作では、こんな感じでした。

許されたい、なんておこがましい事は思ってはいけない。
それは当然のこと。

けれどずっと…
誰かに言ってほしかった。
「それでもいい」と――――――――

太字にした部分、微妙にセリフが異なっています。原作は、「それは当然のこと。」と強調までしている。

また、原作、この部分のコマ、こんな感じになっています。

右上のコマの暗黒具合。おそらく、近藤はずっと、事あるごとに自分で自分を責め、罰していたのでしょう。そんな近藤に与えられた、わずかな救済。

一方、アニメは、そこの色を僅かに変えることで、むしろ近藤に、踏み出す勇気を持つ後押しをしているように見えます。
セリフをわざわざ変えたのには、それなりの意図があってだろうのこと。
(※ただし、これはアニメ版の近藤に、自責の念が薄い、という意味ではありません。例の7話の近藤の独白(ポエムとか言われてますが、個人的には結構好きです、あれ)の中でも、「資格がない」という表現で自分を価値なきものと扱うことで、その辺りの雰囲気を匂わせています。)
ただ、あのシーンでの方向性は異なるように思える。

原作では降り注いでいた雨が、アニメでは天気雨に変わっていたことも、その証左ともなるでしょう。

つまりそれが、アニメオリジナル展開、という方向性につながるのでしょう。

#原作の、昏さと救済、という雰囲気は凄く好きなのですが、これはこれでありかな、とも。

「それから、本当に飛ぶことをあきらめた燕は、きっと、空を見上げることも、忘れてしまうでしょうから」

そして、原作では、自分自身の決意を最後までためらっていたあきらが、アニメでは自ら歩みだす気づきを(近藤の言葉によって)得る。さらに、「きっと好きです」と近藤の後押しもする。

すでに、そんな原作とは違う「もうひとりのあきら」になっているのかも知れません。
先ほど書いた、大人びた表情も、つまりそういうことかも、とも。

対話を重ね、「知った」からこそ

そんな、「もうひとりのあきら」が発したこの言葉。

「あたし、店長の書く小説、きっと好きです」

あきらが店長を後押しする、このセリフ。

原作のあきらの、救済の言葉は、こうでした。

「そんな店長だからです」

「ああいうところ、もっと知りたいです。」

一方、アニメのあきらのセリフは、上記のセリフにプラスして店長の「言葉」にも好意をもったからこそだ、と明示されています。

「あたしは、店長の言葉が聞けて、うれしいです」

「店長の言葉をもっと聞きたいですし、いつか、店長の言葉を、読んでみたいです」

原作のあきらの救済は、近藤という人間、その人となりに対しての、救いの言葉という面が強かったと思いました。だからこそ、雨中で、近藤はその救いを噛み締める。

一方、アニメのあきらの言葉は、創作者としての近藤に対しての言葉でもありました。
「創作者としての近藤」にとって、この言葉は、どれだけ大きなものであったか。
どれほどの勇気を得ることになったか。

あきらは「店長の言葉」によって自ら結論にたどり着く切っ掛けを得て、さらには近藤にも勇気をもたらす。互いが、互いの前進を助ける。

原作では雨のままだった天気が、対話の結果として、雨から天気雨へと変化したのは、そんな二人の前進があったから、なのでしょう。

「もうひとりのあきら」は、「店長の言葉」に助力を得た結果、近藤にそんなエールを送る存在となっていたのです。

燕と「三千代」

さて、それはさておき。
という訳で本題なのですが。
いうまでもなく今回の話の中身には、あきら=栞の燕=飛び立つ最後の一羽、というかたちの示唆がある訳ですが。

この栞が挟まっていたのが「それから」というのが地味に意味深なのです。
そもそも、あきらは、原作で「それから」を読んでいます。

ここから、実は「それから」の内容も何かのメタファーなのではないか、という指摘がネット上にありました。ただ、原作では、「燕の栞」とは何も関係の無いシーンでした。
ところが今回、アニメスタッフは、よりストレートに、強調するかたちで「それから」を話に入れてきた。

#これは小技程度の話かもしれませんが、上のあきらのセリフでも、「それから、本当に…」の「それから」、の部分で、文庫本をわざわざ表示させる念の入れようなのですね。

そもそも、「それから」のあらすじについては、ウィキペディアその他を見て頂きたいのですが、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89

思い詰めた代助は、三千代を自宅に招き寄せる。「ぼくの存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。ぼくはそれをあなたに承知してもらいたいのです。承知してください」と愛を告白する。三千代もその実、結婚前から代助を愛していた。だが、愛する代助に「すてられ」結婚を斡旋されたので平岡に嫁いだ。代助の告白は平岡と結婚する前の3年前に聞きたかったと三千代は泣く。

他人の妻に入れあげて婚姻を断り、挙げ句に夫から事実を伝えられた得の怒りは激しく、代助は勘当を言い渡される。更に誠吾からも他人の妻に入れ込むほど女に苦労していない身だというのにどうしてこんな馬鹿げたことをしたと詰られ、兄夫婦からの絶縁をも言い渡される。こうして代助は恵まれた生活や家族を捨て、愛する三千代を選んだ。そして、世間と対峙することを決意する。じりじりとした夏の日差しが照りつける中、代助は職業をさがして来ると言って、町に飛び出すのだった。

とかく、一度は未来を案じて友人に預けて結婚させた女性を、愛していると自覚して、女性と愛を誓いあって添い遂げる代わりに周囲丸ごと的に回す、というような話になっております。

この話自体恋雨本編と照らし合わせて考えると意味深だなぁ、と思うのですが、この栞が挟まっていたシーン、背後の「それから」がちゃんと読めるように書かれているのですね。これは敢えて、なのか。

青空文庫から、ちょっと長いのですが、抜き出してみます。

尚、太字部分は栞で隠れていた場所、そして赤字は、栞の真横の文章です。

 代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣《な》いて貰《もら》ふ事を喜《よろ》こぶ人《ひと》であつた。今《いま》でも左様《さう》かも知れない。が、些《ちつ》ともそんな顔《かほ》をしないから、解《わか》らない。否、力《つと》めて、人《ひと》の同情を斥《しりぞ》ける様に振舞《ふるま》つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ悟《さと》りか、何方《どつち》かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、人《ひと》の為《ため》に泣《な》く事の好《す》きな男であつた。それが次第々々に泣《な》けなくなつた。泣《な》かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は寧《むし》ろ之《これ》を逆《ぎやく》にして、泣《な》かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の圧迫《あつぱく》を受《う》けて、其重|荷《に》の下《した》に唸《うな》る、劇烈な生存競争場裏に立つ人《ひと》で、真《しん》によく人《ひと》の為《ため》に泣き得るものに、代助は未《いま》だ曾《かつ》て出逢《であ》はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪《けんを》の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌《きざ》してゐると判じた。昔しの代助も、時々《とき/″\》わが胸のうちに、斯う云ふ影《かげ》を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲《かな》しかつた。今《いま》は其|悲《かな》しみも殆んど薄《うす》く剥《は》がれて仕舞つた。だから自分で黒い影《かげ》を凝《じつ》と見詰めて見る。さうして、これが真《まこと》だと思ふ。已《やむ》を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯《か》う云ふ意味の孤独の底《そこ》に陥《おちい》つて煩悶するには、代助の頭《あたま》はあまりに判然《はつきり》し過《すぎ》てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏《ふ》むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今《いま》の自分の眼《まなこ》に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過《すぎ》ないと見傚した。けれども、同時に、両人《ふたり》の間《あひだ》に横《よこ》たはる一種の特別な事情の為《ため》、此隔離が世間並《せけんなみ》よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代《みちよ》の結婚であつた。三千代《みちよ》を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に悔《くゆ》る様な薄弱な頭脳《づのう》ではなかつた。今日《こんにち》に至つて振り返つて見ても、自分の所作《しよさ》は、過去を照《て》らす鮮《あざや》かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等|二人《ににん》の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に頭《あたま》を下《さ》げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と何故《なぜ》三千代を貰《もら》つたかと思ふ様になつた。代助は何処《どこ》かしらで、何故《なぜ》三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に閉《と》ぢ籠《こも》つて一日《いちにち》考へに沈《しづ》んでゐた。晩食《ばんしよく》の時、門野が、
「先生|今日《けふ》は一日《いちにち》御勉強ですな。どうです、些《ち》と御散歩になりませんか。今夜《こんや》は寅毘沙《とらびしや》ですぜ。演芸館で支那人《ちやん》の留学生が芝居を演《や》つてます。どんな事を演《や》る積ですか、行《い》つて御覧なすつたら何《ど》うです。支那人《ちやん》てえ奴《やつ》は、臆面がないから、何《なん》でも遣《や》る気だから呑気なもんだ。……」と一人《ひとり》で喋舌《しやべ》つた。

#細かいことを言うと、「何故なぜ三千代を貰ったか」の部分が、栞に合わせた為に改行が不自然になってる訳ですが、とりあえずご愛敬でしょうか。むしろ、何故改行してまでその文章を入れたのか、ともなるかも、とも。

とかくまぁ、「愛する女性と一度は添い遂げなかった」ことを後悔して、ひたすら煩悶するシーンになっております。

で、「それから」では最終的に、その一度は離れた愛する女性と想いを伝え合い、世間を敵に回してでも添い遂げる、そうなる訳です。

これは、何かを意図してのことなのかな、とまぁ、深読みもしてくなってしまいます。

何というか、10話の雰囲気、さらに11話予告からの12話の方向性の予測して、アニメのラストは恋愛というよりも「二人とも前に踏み出す」といった形になりそうに思えますが、案外恋愛方面でも、近い将来での明確な再会(さらにはプラスα)等、突っ込んでくる、ということなのかもしれません。

光に向かいつつある二人。
その先にあるものは。

とかく、あと2話、楽しませて頂きたいと思います。

原作最終話、もうすぐか…。

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