恋雨「正史」との向き合い方/あなたの心のうちの二人を/考察とその先

以下の文章はどちらかといえば考察そのものではなく、ただの雑記のようなものです。

尚、以下、「恋は雨上がりのように」最終話(82話)、およびその先の意味合いについて、作者先生ご本人から明かされたという内容、つまり「正史」としての二人の未来の内容について言及するものとなります。当然一種のネタバレ、そういうものになるかと思います。そういったものを見たくないという方はご注意ください。

明らかになった「正史」

さて、この文章は先日掲載した、「恋は雨上がりのように」最終話(82話)考察

読みました。 「恋は雨上がりのように」最終話(82話)を読みました。 とりあえず、今のところの考察感想を書いておきたいと思います。 ...

の、追加記事として書いたようなものです。

というのも、ネット上で見かけた話によると、恋雨については、作者先生ご本人のブログより、82話はどう読めばよいのか示された、つまり、その先の「正史」が明らかになったようなのです。

伝聞調で書いている理由は、私は実際にその一次情報に触れたわけではないからです。白状すると、「恋雨」については、作者先生ご本人によるストレートな発信情報は見ないようにしておりました。あまり近すぎる情報には触れたくないという意識あった、というか、そういう風に自分で決めていたもので。先日の考察では、作者先生ご本人のインタビュー記事には言及しておりましたが、それはあくまで公式方面からの、フィルターを経由した掲載情報ということで、確認してもまぁ構わないもの、という切り分けで見ていたものだったりします。というか、あちこちで言及されてたから、確認しない訳には行かないか、といった辺りか。
(そしてまた、その方針は今も変えるつもりはなく、私自身は今のところ一次情報の詳細は確認しに行かないと決めているものなので、あくまで噂として言及するしかできないものとして、ご了承頂ければ幸いです(尚、そもそもその一次情報元たるご本人のブログは、現在閲覧不可となっているとの話です)。)

そして、その明かされた内容は、どうやら私が行った考察とは真逆の方向性を示すものだったようです。あきらの「あの人」という言い方も、作者先生ご本人の意図するところでは、真逆の意味合いであった、ということのようです。恐らくですが。

#尚、その見解は、どうやら、すでに私が先日の記事をUPする以前には公にされていたもののようです。私は、自分自身の考察、感想を書きあげるまで、ネット上の、ほかの方の考察や意見にはなるべく触れないようにしていたもので、その辺りの把握が結果として遅れることとなりました。言ってみれば、私は、世間的にはそれらの情報がすでに正史として、ネット上の読者の、それなりの多くのひとの間に共通認識として広まっている状態で、自分なりの(真逆の内容の)考察を書いていたということになります1。人によっては一種の滑稽さを感じる状況であったかも知れません。
その滑稽さもまた一興、として笑い飛ばすのが正しい姿勢ともなるかもですが。それでも、客観的事実として滑稽ということにはなるのでしょう。

「正史」の受け取り方と

そして、どうやら、twitter等で見かけた情景としては、その明らかになった「正史」(ただし、既に一次情報源が非公開状態になっている点を考慮すると、現行上のひとまずの「正史」とはすべきかも知れません)に対して、いわゆる心理的衝撃、ショックを受けた方、悲しんだ方、もしくはそれに類する何かの感情を覚えた方もいらっしゃったようです。ひとによっては、かなり極端なかたちで。確かに、いわゆる(将来的な、緩やかな期待程度を含む)二人の人生がひとつのものとなる方向を期待していた方々、と、いうよりも、最終回にそのような像を「見ていた」方々にとっては、「正史」がそのようなかたちで、本編の埒外にて確定したことは、それなりに哀しみをともなう、予想外の衝撃をもたらす話であったかも知れません。人によっては、実際厳しい話ではあったろうとも思います。

言い換えると、最終回を読み終えた、その時、すなわち、物語として読者を受け取り、二人の存在を受け取ったそのときではなく、そのさきにて、そのような「正史」が確定してしまった、ということは。
もしくは、あの最終回に(そういった像に限らない)様々な像を見ておられた方々それぞれにとって、と述べた方がより正解なのかも知れませんが。

ただ、私自身、その情報を受け取った時にどう思ったか、なのですが。
正直なところ、上記のような意味での悲しさ、残念さ、もしくはその他の影響等は無かったのですね。ええ、殆ど皆無と言っていい。これは本当のこと。
#ああ、まぁ後述の通り全く皆無ではなかったか。
とかく、「恋雨」という作品に関して、ある種の悲しさ、もしくは残念さを感じたのは事実なのですが、その「悲しさ」は、上で述べたような悲しさとはいささかことなるものでした。
具体的に言うと、「正史」がそのように確定したから悲しいのではなく、「正史」がそのようなものである以上、私が以前想像したような方向性での単行本加筆等の続編は、当然、出ることは無いのだろうな、と思ったからなのでした。その方向で、もう追加の本編を楽しむ機会はあまり望めないのだろうなぁ、と。(もちろん、万が一でもそのような機会、ifを見る機会があればそれは大変喜ばしいことなのですが。)

どういうことかというと、ですね。一種の傲慢さを示す、かつ非礼な言い方であることを承知しつつ、恐縮しつつ述べますと、つまり私は、先日の最終話を読み、考察を書きあげた段階で、私が、「恋雨」本編内から受け取ったあきら及び近藤という存在、そのひととなり、その想い、その願い、およびそこから想像できる、彼女らの行き先について、一つの勝手な、独善的な、ある程度確定的な理解に達しており、その理解、その像は、「本編情報」によらずしては、影響を受けるものではなかったからなのです。

これは、作者先生ご本人から示された「正史」を無視するというものでは、そのような傲慢な意図を示すものではありません。
作品は、どこまでいっても作者ご本人のものです。そこから示される「正史」には敬意を払わなければならない。そう思います。
ええ、それは「正史」なのです。間違いなく。

本編と、新たなに明かされたものとのあいだ

ただ、それは、(幸いにも)あくまで追加情報だった。
最終回まで提示された「物語」にては示されないものだった。
示されないものである以上、それは物語の枠内のものではなく、あくまで外側、別個の、埒外のものだった。
「恋雨」の一部ではなかった。
すなわち、それは、あきらの一部を、近藤の一部を構成する要素ではなかった。
構成する要素でもなく、また「事実」として示されたものでもなかった。
あきらのこころのありよう、近藤のこころのありようとして意味を為すものではなかった。
それは、作品の読者としては受け取っていないものだし、また、(決して悪意の表現ではないと強調したいのですが)本編の内容にとどまるうちは、受け取る必要も、理由も無いものだった。
正直なところ、もしもその手の情報が、明確なかたちで、かの82話に描かれていたとしたら、個人的にはとても哀しいものだったろうと思います。それは、本編がそのようなものである、近藤が、あきらが、そのようなものである、二人の未来はそのようなものである、そして何より、二人の内心はそのようなものである、すなわち、二人の真実はそのようなものである、という「事実」を確定させるものだからです。二人のこころを確定させるものであるからです。
そして、創作物そのものに対して敬意を払う以上、そこに描かれた「事実」は、まず「事実」として受け入れなければならないものだからです。
それが仮にどのようなものであったとしても、「見なかったことにする」という姿勢は基本的な姿勢としては、とるべきではないものであると思います。また、そもそも、とることは容易でないものでしょう。

だが、今回、新たに示されたそれは、それは本編、特にその本編82話には描かれていない。存在はしていない。少なくとも、本編から私が読み取れる理解の範囲内では、私はそう受け取っていました。
これまで、恋雨の考察は何度か書いてきましたが、それが作者先生ご本人の意図と真逆方面であったとしたら、つまり、私の理解は、独善的、かつ、多くの読み間違いを含むものであった、ということになるのかも知れません。
ただ、私は本編全体を読んだ段階で、そのように受け取っておりました。そして、その判断を変える必要性は今も感じておりません。

何しろ、私はそのような異なる方向性を、本編内からは、あくまで私としては受け取ってはいないのです。
それが、本編のなかにて明示されない、と私自身が受け取っている以上、それは私自身にとっては含まれないものなのです。

とりわけ、先日書いたレビューは、私が本編から読み込んだ情報から、自分自身が、自分なりに納得できる結論として導けるもの、として書いたものであって、実際に「正史」が示された今でも、その内容を修正する必要性が生じることは、言い換えれば私自身の理解が変わることは無いのです。
それが完全な誤読とされても、別にそれでも構わない。読んでいる人間が勝手に思い込んでいるだけ、ただそれだけのこととされれても、それでいい。

#そんな気持ちの意味も込めて、先日の考察記事で「勝手に想像して勝手に受け取ってはいる」という書き方をしていたりしました。

それゆえに、本当にそういう意味での残念さは特に無い、というのが本音の気持ちだったりするのです。

(つまり、これまた一種の傲慢な言い方となってしまうのですが、「そういう展開もいいよね!」「そういう展開も好きさ!」という許容、前向きさ故に心理的衝撃を受けていないのではなく2、「自分としては、本編から読み取れるその後はそういうものではないかな」ということで、そういったものを受けずに「どうにか無事でいる」訳です。なんとも偉そうな言い方になってしまうかな、とも思い、恐縮仕切りなのですが、でも、本音を正直に示すと、そのようになります。)

ただまぁ、そういう「正史」が示された以上、自分の中の像に対しての自信が揺らぐことがない、といえば嘘になります。「正史」とはそれだけの意味合い、威光、重力を、ちからをもつものだからです。またそれだけの敬意を払うべきものだからです。それが先ほど述べた「皆無では無かった」という意味。
でも、それでも、せいぜい時々不安というか、そういうあやふやな気持ちを覚えなくもない、程度である。やはり私の中の像、あきらや近藤の存在は、そのような外側のなにか、大きななにかに対峙してもなお、そのようなものとして、自信をもってありつづけているのです。

#だからこそ逆に、そういう噂を聞いた今となっては、10巻を購入して読むか、というのは少し迷いが生じていたりもします。いくら、雑誌本編では提示されなかった、雑誌本編の時点では「真実」ではなかったとしても、具体的に漫画で描かれたかたちで、「正史」寄りの話が、本編加筆や、おまけで出てくるかも知れないのは、やはりダメージ大きいというか、少しだけ恐れのような、読みたくないような、そんな気持ちがある訳です。そういうものがある場合、当然、どうあっても、「正史」寄りの話になりますし。やっぱしばらくは、手を出さないまま、かな……。勿論、逆方向の希望がひっそりと追加されたような短編等があった日には、本気で大喜びなのですが(笑)。

##それ故に、もっと言えば、アニメ本編がどうなるのか、というのは、楽しみにしつつ、心配でもあるのです(苦笑)。アニメ本編で、そういった希望が残る方向が示されれば、大変うれしきことなのですが、逆方向の「確定的な未来」が描かれてしまったら、それは、かなり厳しいことであるなぁ、という。ええ、まったくもって独善的です。はい。

二人の姿に見たもの/見ようとしたもの

手元に手紙を置き続ける、そして、「読めずにいる」という言葉に見える、近藤の執着。

文学で人を救う、という変わらぬ近藤の誓い。

そのままに、自らは呪いを受容し続ける近藤。

そして、あきらの誕生日を心に刻んだ近藤。

その近藤の「忘れるよ」という予言を否定し、最後まで「忘れませんッ!」と宣言したあきら。

そして、ついに最終話にて、「あの人」として、その誓い通りに、近藤の予言を否定してみせた、あきら。そう受け取ることが可能である、あきら。

移ろいやすい少女の言葉、なのかもしれない。結局は普遍的な話、きわめて一般的かつ常識的なことであるように、その気持ちは一時のもの、過去のものとなってしまうのかも知れない。それは当然のことであり、何の不思議もない。むしろ自然である。それでも、文化祭のあの日、「本当に好きな人がいるのに、あきらめて別の人のところへ行くなんて…あたしには考えられない。」と自らの立ち位置を宣言したあきら。彼女自身が、自分ががそのようなものである、たとえ己が不安定な少女の心持ちのうちにあるものであったとしても、それでも、移ろうものではない、そうありたい、と述べたあきら。一般論としての忘却の負荷に屈しないと、己の決意を明らかにしたあきら。

さらには、いつか来る、近藤の小説の完成のとき。そして、それに伴う、手紙のひらかれるとき。

そこにある、そこでかならずや求められる、近藤の決意。いつか自ら選ばねばならない、言葉を受け取る、決意。己の心を奪っていった相手に対する、誠意としての決意。その選択を後押しするであろう、希望の証としての、「栞の燕」。

そして、近藤の願いの証として、今もあきらの手元にあり続ける日傘。その願いの通りに、かの雪の日と同じままに、微笑み続けるあきら。

そういった情景、それぞれから、私は「正史」とは異なる像を二人の未来に見て、故に、そのように受け取っているのです。

受け取ってしまっているのです。

そこに見えたと思ったものを見て、もしくは、「見ようとしてしまったもの」を、見て、受け取っているのです3

それを真実として、まことのこととして、受け取っているのです。

だからこそ、そこの未来を、82話の段階では明示として確定させなかった作者先生ご本人には、嘘偽りなく、心から感謝もしてもいるのです。

つまり、何を言いたいのかというと。

「正史」を知って、哀しんでいるひと、ショックを受けているひとが居るのだとしたら。「正史」を受け入れてもなお、そのような感情となる必要は、ショックを受ける必要は、無いのではないか、と。悲しむ必要も無いのではないか、と。何しろ、それは本編内にて描かれた、本編内にて確定したものではないのです。自分はそう考えています。

それは、意固地になって「正史」を否定しろという意味ではありません。そんな必要は無いし、そのような自然の流れに逆らった意識をたもつことに、力を無駄に消費することも無い。また、それは、創作者、一つの作品世界の創造主たる創作者に対して極めて敬意に欠ける行動とも考えます。

そうではなく、「正史」は「正史」として、間違いなく存在するとしても、もしも別の像をそこに見ていた人がいたら、その人の内部のあきら、近藤は、そのままにしてあげて良いのではないか、と。そんな二人の存在を、無理に否定して、なかったものとしなくても良いのではないか、と。その二人の存在を、許してあげてもよいのではないか、と。

繰り返しますが、「正史」は敬意を払うべき、「正統」たりうる存在です。各人がどのように物語を受け取ろうと、創造主たる創作者より「正史」が示された以上、それはそういうものなのです。それでも、それを、それとして理解しつつも、己の中の像は、己の中の存在は、その二人は、別のものであるなら、それを、大事にしてあげてよいのではないか、とも思うのです。
ネットの片隅で、読者がそれぞれ、そのようなかたちで、それぞれのあきらと近藤を、すなわち、橘あきらと、近藤正己を大切にしてあげればよいのではないか、と。

少なくとも、自分はそうしているし、ゆえに、「どうにか無事」でおります。はい。

ええ、今でも、自分にとって、あきらと近藤の未来は、そういうものですよ。そういう、一つの選択肢としての幸せな像を見ています。だから、勝手な、きわめて傲慢な、偉そうな言い方をすれば、大変満足しているのです4

考察とそのさき/あなたの心のうちの二人を

こんな風なことを考えているうちに、なんというか、これは二次創作小説、SSを書く時の思考に近いものなのかな、などとも思ったりしました。

私は、たまにゲームや漫画のの二次創作小説等書いた事もありましたが、その時は、基本的なスタンスとして、本編内で示されたものをなるたけ事実と評価しつつ、そこの作品世界のなかで、自分なりに読み取れる、解釈できる事実を考え、そこから話を広げていく、という方法を取っていました。

そして、これは、結局本編内から隠されてる事実を読みだそうとする、考察と結構近い行動なのですよね。

そういう意味で、私が今まで行ってきた、恋雨に対する考察(もしくは妄想)は、そういう方向に近いものなのかな、とも思った次第です。(頑張ればそのままSSも書けますかね。)

とかく、とりとめもなく色々と書いてきましたが、そんな風に自分は受け取っているし、もしも「正史」にショックや悲しさでダメージを受けている人が居たら、おのおの、自分の中のあきらの像、近藤の像を大切にしてあげれば、それでよいんじゃないかな、と。どうか、その二人を、なきものにせず、実際にいるものとして、そういう存在として、扱ってあげて欲しいな、と。何しろ、心のうちで否定したら、その二人は、あきらと近藤は、消えてうせてしまうのですから。失われてしまうのですから。それは、あまりにも寂しいことと思うのです。

というか、さらに語りたい思いのたけがあるのなら、それに従って考察なり、SSなり、同人誌なり書けばよいんじゃないのかもですね、とも。そんなことを思った次第なのでした。

そういう訳で、補足というか、とりとめもない雑記なのでした。

  1. それらの事実を知っても尚、正直自分の考察というか受け取り方の中身は変わっていなかった、とは思いますが、かといって、やはり書く内容は違ったものになったかも知れません。
  2. 隠さざる本音としては、二人のその後、そして二人それぞれ意識が、こころのうちがそのようである、となるのは、正直哀しくもあり、また、受け入れがたく感じられることであります
  3. だからこそ、極めて滑稽なことに、単行本にて、てっきりそのような方向での追加があるんじゃないか、などと勝手に期待もしてしまった訳ですが。
  4. 幸せな像を、そんな幸せな未来の像を当然見ることができるし、ニヤニヤも出来ますよ(笑)

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