「恋は雨上がりのように」最終話(82話)考察感想レビュー

読みました。

「恋は雨上がりのように」最終話(82話)を読みました。

とりあえず、今のところの考察感想を書いておきたいと思います。

いうまでもなく雑誌連載最終話ネタバレなのでご注意下さい。

あきらの笑顔が示すもの

まず、はっきりしていることがあります。

近藤は、かの冬の正月にて、一つの正解を選択しました。

それが、明らかになりました。

事実として示されているのは、あきらが己の幻影に打ち勝って、全力で走り切り、その結果、雑誌107ページ、はるかに抱き着かれたときの、あの笑顔になったということ。

あのはじけた笑顔のあきらを漫画本編中で(描写として)見ることができるは、おそらく3度目です。(他にもあったかも知れないが、印象的なものは、そこになるかと思います。)

そして、最初の二度は、いずれも、過去の回想。

1度めは、本編1巻、130ページ。はるかと後輩がじゃれあってるのを見た時に、そこにかつてあきらとはるかがそうやっている姿を、重ねた時。

2度目は、本編7巻、96ページ。走ることの気落ち良さを、「空に とけてるみたいになる。」と表現したあきらに、はるかが同意を示した時。

「走ること」を、心の底から喜んでいるとき。

これが、本来のあきらの笑顔。

そして、それはいずれも過去の笑顔だった。失われた笑顔だった。

あきらは、それを取り戻した。

近藤のやり方が、唯一の正解だったかはどうかは分かりません。(あるいは、控えめなかたちで)想いを伝えつつ、支えるというやり方もあったのではないか。そちらの側にも、正解はあったのではないか。そうとも思います。
ただ、いずれにせよ、間違いなく、これは正解へ至る一つの道だった。

そういうことなのだろうと思います。あの日の近藤の判断こそが、この結果をもたらした。燕は飛び立った。

「これからもずっと怖いよ。」

あきらの恐怖は、今日で終わり、というものではありません。
陸上を続ける限り、常に、怪我の再発という恐怖と戦わなければならない。
それは、走り続けるかぎり、ずっと。
燕はこの先、飛ぶたびに、恐怖と戦う。

だからこそ、燕はいつも力を得る。

「あの人だって、同じはず。」

近藤の存在を想い、近藤から得た助力を想い、恐怖と戦い続ける。

近藤はあきらに、陸上への復帰を、巣立ちを願った。

そして、その通りになった。

『日傘』に込められた願い

そして、近藤のあの日のプレゼントが日傘であったことも、近藤がこの結果をもたらすために行動していた、と考えれば、その目的に一貫したプレゼントであった、ということになるかと思います。

日傘は、日が差してこそ必要になるもの。

あきらが、雨の中ではなく、明るい日差しの中に居られるように。
「青い夏の、雨上がりの空」の中に居られるように。
そこで、微笑んでいられるように。

その願いこそが、日傘の意味。

「趣味に合うかわからないけど… 橘さんに似合うと思って。」

その傘の差せる場所こそが、あきらの似合う場所である。近藤はそう思っている。そう願っている。

そこから考えると、推測でしかありませんが、いまだ明かされない、82話の別れ際に近藤が言ったセリフも、そういった願いの言葉だったのではないか、とも考えられます。

近藤はあきらに笑顔を願った。巣立った上で、微笑み続けることを願った。

81話ラストページの、「もう大丈夫」の笑顔。

82話ラスト手前ページの、『日傘!』の笑顔。

意味合いも、シチュエーションも、そして何より内面の感情も異なる筈なのに、どこかこう、似た笑顔に感じられました。

喜び、あるいは、哀しみの笑顔といったものではなく、信念の笑顔、あきら自身がそうあるべきと思っているからこそ、そうしている笑顔、ともいうべきか。

それは、どちらも等しく、「近藤があきらに願った笑顔」だからであり、あきらがその願いに応え続けているから、とも思えるのです。

故に、彼女は日の下に進み、飛び、そして、微笑む。それが、近藤の願いであったのだから。

「捨てなかった勇気」の意味


2ページ目、扉絵。実はここにも注目したい部分がありました。

それは、内容ではなく、あおり文。

「陸上を捨てなかった勇気が あきらを再びこの場所へ───────────」

この、「捨てなかった勇気」には、傍点がふられております。

このあおり文に書くにあたっては、当然、作者眉月先生と、編集の方々の間で何らかの相談があったものと思います。そして、これにより、前回、あきらが「捨てなかった勇気」という言葉をどういう意味で言ったのか、明確になったな、と。

あきらは、陸上を捨てなかった。あきらにとって、それは勇気。
そして、近藤は、小説を捨てなかった。やはりそれは、あきらにとって、勇気の証。

あきらにとっては、あきらと近藤は、共に勇気でもって戦い続けるもの同志なのです。

近藤自身にとって、それが勇気なのかはわからない。だが、あきらから見れば、それは勇気だった。

だからこそ、二人の勇気が同じものであると信じられるからこそ、あきらもまた、勇気をもって走る。走ることができる。

そういうことなのかも知れません。

開けられない手紙/近藤の「執着」

さて、その近藤に目を移してみましょう。
近藤は今も店長の仕事を続けています。
そして、どうやら、ひっそりと小説は書き続けている。
ただ、いまだそれは過程。

そして、言うまでもなく、最大のポイントは、手紙がいまだ開封されていないこと。
その事実が明かされているのは8月。手紙が渡されてから既に7か月が経過しています。
その間、近藤は、あきらに対してアクションを起こさなかった。
6月21日のあきらの誕生日ですら、近藤は(おそらく)アクションを起こさなかった。

そして、手紙をただ手元に置き続けている。

これは、どう考えればいいのか。

近藤はこう語ります。

結局、橘さんからの手紙は読めずにいる。
彼女は俺を、恨むだろうか。

いいんだ、それで。

あの正月の決意から言って、近藤は、あきらを受け入れないことこそ、あきらにとって正しい事(=正義)と考えていると思われます。
では、手紙を「読まずにいる」ではなく、「読めずにいる」とは、どういうことか。
読もうとはしている。だが、ためらいがある。そのまま日々を過ごしている。

それこそ、読まないことが正義なのなら、極論すれば、それこそ読まずに破棄することだって選択肢としてはありうる訳です。だが、その選択はない。
これは、どういうことか。

一つのヒントは、かの近藤の小説部屋です。
そもそも、近藤は、小説について、ちひろとの語りで、「最後まで書ききったのなんてもう4、5年ない」と言っています。おそらく、ある程度書いて、でもやめて、といったことを繰り返している。
それでも、小説部屋を維持し続けている。
そのことを指して、ちひろは、「あの部屋だって、未練じゃなくて執着なんだ。」と言いました。
それは過去への未練ではない。今なお、という執着である。
ちひろは、近藤から目をそらして、それを言っている。
肯定でもなく、否定でもなく。ただ事実として、それを言っている。
だからこそ、「なんかすまん…」とあやまる近藤に対して、「俺にあやまるな!」とその言葉を拒否する。
それが、どのような評価をされるものであれ、近藤は、そういうものである。そう言っている。
「正直な人生」である、と。

で、あるならば。

「近藤が手元に手紙を置き続け、(読もうとする意志もあるのに)読めずにいる」のは、まさに、近藤があきらという存在に「執着」している。「執着」し続けている。そういう意味なのでしょう。

近藤は、あの日、あきらを受け入れないことこそ正義と信じ、ゆえに、その決断を通し切った。
それが正義と信じ、そして、その願い通り、ついにあきらは日の差す場所にたどり着いた。
あの笑顔を取り戻した。
だが同時に、近藤は、その正直さ故に、執着もまた、いまだ現在のこととして残し続けている。

近藤は、今なお、あきらを想い続けている。

当たり前のことなのでしょう。あの日、近藤は「一生忘れない」と言いました。

もうすぐ最終回……、という訳で 恋雨面白いなぁ……。 来週には完結なんだよな、と思いつつ、せっかく久々にブログ更新をするので、ついでに最近...

以前書いた考察の後段にて、近藤は自身に、一種の呪いをかけた、といったことを書きました。
近藤は、あきらという「雪女」が、近藤の心を奪うことを、受容した。
雪女が自身の心を奪い、そして去るのを、たた見送る。
おおくのものをあきらから貰った近藤が、その代償として捧げられるのは、ただそれだけ。
だからこそ近藤は、自分で、自分に呪いをかけた。他ならない、自分自身の意志で。
恨まれてもいい。忘れられてもいい。ただ近藤は忘れない、その事実だけでいい。自分に呪いをかけたというのは、そういうこと。

それは、近藤にとり、もはやあきらが唯一の女性となった、という意思表示でもある。

そして、だからこそ、手紙を失わしめるという選択は、近藤にはありえないものとなります。近藤は、あきらという雪女によって既に呪われている。そして、雪女に心を奪われたものにできることは、ただ、佇み、待つだけ。雪女がもう現れなくても、想い続けるだけ。

だとしたら、その雪女ともう一度つながりを持てるかもしれないよすが、最大のよすがである手紙をどうして捨てられるだろうか。

もっとも、かといっても、この近藤の正直さは、人によっては批判の対象ともなろうものでありましょう。
その、手紙の中身は何なのか。
あきらは、何を伝えようとしたのか。
その中身が何であれ、伝えようとした以上、まずはその中身を知ることは、最低限の誠意なのではないのか。

もしも、手紙が、「近藤のことをずっと待つ」という類のものであったとしたら?
もしも、手紙が、近藤の答えが出るまでは、自分はどうにも動かない、という宣言だったとしたら?
もしも、あきらが、近藤の予想に反して、宣言通り、近藤のことをずっと忘れなかったとしたら?
もしも、あきらもまた、「呪われて」いたとしたら?

それが、近藤が手紙を読み、応えるまで、あきらを縛り付けるものであったとしたら。

近藤は、自身のみに呪いをかけたつもりで、実はあきらにも呪いをかけてしまっているのかもしれない。今日も、今もなお。その真実は、蓋が開けられない限りは、決して明らかにならないこと。

仮にそうだとすれば、確かにそれは悲劇以外の何物でもなく、また、そこへの選択を留保する近藤の行動は、人によっては、非難の対象ともなりうるものでしょう。
ただ、ちひろが「あやまるな!」としてその負い目を否定したように。
それでも、近藤の正直さとは、そういうもの、ということなのだろうとも思います。

では、そもそも、その手紙の中身は何なのか。

「手紙」の願いは

さて、ちょっとここで、分析的なことを書いてみましょうか。
かなり無理なこととは承知しつつ、「店長へ」とされた「手紙」の中身が一体どういうものだったのか、予想してみましょう。

まず、以下のような事実があります。

  • あきらは、あの日、近藤に身を捧げるつもりだった。
  • 「戻りましょう!」のセリフからも、その決意はかなり強固なものだったと想像できる。
  • その一方で、近藤が不在と思った時は、マフラーと手紙だけ置いて帰ろうとした。

ここから、身を捧げる(完全に想いを伝え合う)ことに成功しようと、もしくはその一切についてその日に前進がなかろうと、内容を変える必要が無いものだったと想像できます。言い換えると、その日、次の日の、近藤との関係が、親密な恋人関係といったものになっていても、いわゆる「お友達」のままだったとしても、伝える内容に変化が無いものなのです。

つまり、色恋的なもののみが主目的なものとは、かならずしも限らない。
もちろん、シンプルに「ずっと好きです」というようなものなのかもしれない。
出会いから今までとの、近藤との関係について綴ったなにがしかの文章なのかも知れない。
二人の間で微妙に齟齬のあった「デジャブ」についての、なにがしかの真実が書かれていたりするのかもしれない。
ただ、それだけのものではない、という可能性はやはり否定できない。
もしもあの日のあきらの希望が成功していた場合、当然二人の間はもっと親密になっており、直接伝えられることも多かった筈です。
でも、それが仮に成功しても尚、あきらは手紙で伝える必要があった。伝えたいと思った。その、何かを。

となると……、「今は陸上に集中して、いずれ戻ってきます」系の手紙かな? という想像もできなくもないのですが……、その一方でこれまたこういう事実があります。

  • あきらは、ぎりぎりまで陸上への思いをためらっていた。
  • 近藤の「待たせた季節」の言葉で決意を促され、やっとの思いで「走りたい…!」という自分の真意にたどり着いた。
  • そもそも、その決意を経て尚、「また、ガーデンで!」と言っている部分からも、近藤との関係を、(また、ガーデンでの自分の立場を)すぐさま変えようという意識は(手紙を書いている時点では)見えない。

となると、「今は陸上に集中して、いずれ戻ってきます!」とか「卒業したら戻ってきます!」系、すなわち、将来に向けて何かの約束や、宣言をするものも、これまた考えにくい訳です。あきらは、手紙を書いている時点では、そこにたどり着いてはいない。近藤の最後の助力あって、やっとそこにたどり着けたのだから。(たどりつきかけてはいましたが。)

じゃあ、何だ。

となると…、一つの可能性として想像できるのは、あきら自身について(また、あきらと近藤の関係について)のみの手紙ではなく、近藤への純粋なエールなのではないか、ということなのです。

もちろん、伝えたいことはあくまで近藤への純粋な想いなのかもしれない。

「あの日、傘を差しだしてくれたのが… あなたで、よかった。」

その想いを、文字として明らかにするものなのかもしない。

ただ、それでも、そこにプラスして、純粋なエールがあるのではないか。

大きなヒントが一つあります。

あきらの独白。

「あの人だって、同じはず。」

あきらは信じている。近藤戦い続けていると。
あきらが陸上をやめ、走らなくなってしまうことこそ怖いのと同じく、近藤もまた、小説を書くのをやめてしまうことこそが怖い筈だ、と。 あきらが、「捨てなかった勇気」を持つものであるのと同じく、近藤もまた、「捨てなかった勇気」を持つものである、と。 二人は、同じ戦いを続けているものである、と。それを信じている。 だから近藤も書き続けている筈、と。

あの正月の後から、この大会の日まで、あきらは近藤には会っていません。メールでの、想いを伝え合う系のやりとりもしてはいない筈です。1

でも、ここまで強固に信じられるのは、何故か。

それは──、自分の言葉が近藤に届いており、そこにある願い通りに、近藤は戦い続けていると信じているからではないか。
あきらが、近藤の願い通りに、日の当たる場所で微笑み続けるように。
近藤の願い通りに、日傘の似合う橘あきらであり続けようと、しているように。

この推測は、漫画本編だけから得られた推測ではありません。アニメ10話がヒントになりました。

「友人として」 実にこう、恋する少女モードの「友人」…。 「お前のような惚れ顔の『友人』が居るか!」とかいう某拳士の言葉が聞...

アニメ10話「白雨」で、あきらははっきりと「近藤の小説を読みたい」と言っています。
これにより、アニメの近藤もまた、決意を促されることになります。

一方、原作のあきらから、その言葉、創作者としての近藤へのストレートなエールは、いまだ伝えられてはいません。仮に手紙がそういう内容だとしても、その手紙もまた、開かれてはいない。
(そのこともあってか、最終話、8月の段階で、まだ近藤は小説を書きあげるといった到達点にはたどり着いていません。
その、近藤にとって、最後の勇気を出すために必要なエールが、「あなたの言葉をもっと聞きたい」「あなたの言葉を読みたい」そして、「あなたの小説を読みたい」というエールが、実は、そこにあるのではないか。

先ほど述べた通り、そもそも予想すること自体かなり無理筋ではあるのですが、でも、そんな風にも思えるのです。

だとすれば、先ほどのような非難にはあたらない。そういう風にもなるかと思います。それはあきらを縛りつけるものではない。

ただ、それでも。

二人の行く先/「予想外のすれ違い」の先にあるもの

さて、やはり気になる部分としては、二人は今後どうなるのか、というか具体的に言えば、再会して、その先に進むことはあるのか、ということになるかと思います。

もちろん、本編最終話では具体的に語られてはいないことです。故に、ただ推測で語るしかない。

しかし、なにがしかのヒントを見出そうとするのは、許されないことではないかと思います。

現状として、おそらく、近藤は、手紙の内容について、近藤とあきらの関係を進捗させてしまう、何らかの要素が含まれていることを(表面上は)危惧し、ゆえに、その先に進めずにいます。

そこに、たとえば、「ずっと好きです」といった系統の言葉が書かれており、自分が踏みとどまれなくなることを恐れている。そして、そこにある、予想外のエールを、受け取れずにいるのかもしれない。

一方あきらは、手紙は届いていることを信じて、そして、近藤もその願いと共にあることを信じて、今日も走り続ける。

実は、二人とも互いに想像もしていない一種のすれ違いが、そこの生じたままなのかもしれない。

じゃあ、今後どうなるのか。

「忘れたっていい」という言葉の意味

近藤、実は、あきらから初めに告白への返答を求められた時から、あきらのことを、一度も拒否はしていないのですよね。

「返事をすることはできないよ。」

「橘さん、やっぱり考え直したほうがいいよ」

「ダメなわけないじゃないか!!」「ダメなんてことは決してない!!」

一度もNOとは言っていない。あきらに、踏みとどまること、考え直すことは何度も促している。ただ、拒んではいない。なら、あきらの側に止まる理由はない。止まる理由はなかった。そして、あの正月まで来た。
さらには、おそらくは、正月のあのラストの会話でも、近藤はあきらを拒絶していない。
近藤は「正直」であるが故に、「嘘」はつかない。
言いたいこと、伝えたいことを、言わずにしまい込むことはあるかもしれない。

「俺は、橘さんのことが好きなんだ…」

そんな哀切に満ちた気づきを、あの正月、ついに伝えなかったように。2

ただ、あきらに対して発する言葉は、きっと、常に真摯なもの。常に、あきらの想いを裏切らないもの。

だからこそ、近藤は、「一生忘れない」という究極の言葉で、密かにあきらに告白したのでしょう。「ほかにだれも居ない」のだ、と。
告白しつつ、自分に呪いをかけた。

そして、同時にあきらを解き放とうとした。

「橘さんは忘れるよ」
「忘れたっていいんだ」

そんな予言と、忘れたっていい、という解放の言葉とともに。

ただし、これは、「忘れろ」ではなく、「忘れたってい」という留保の表現でした。近藤は正直である。忘れて欲しい訳ではない。むしろ忘れて欲しくはない。なら、どうして、思ってもいないことを口にできるだろうか。執着が存在しない、などという嘘を言えるだろうか。

あきらが離れていくのは構わない。当然のこととして受け入れる。ただ、離れて欲しい訳ではない。

その、ぎりぎりの正直さが、「忘れたっていいんだ」の意味なのではないでしょうか。

#その視点で見ると、最終話の、「彼女は、俺を、恨むだろうか」「いいんだ、それで」という言葉も、ちょっと別の色を帯びてきます。恨まれることも、受け入れる。でも、恨んで欲しい訳ではない。

煮え切らなさ、なのかもしれない。でもそれこそが、近藤が正直であるということ。

ゆえに、ぎりぎりの、「忘れたっていいんだ」という解放の言葉、そして、「橘さんは忘れるよ」という控えめな予言の言葉で、想いを伝えた。

あきらを解き放とうとした。

それが近藤の誠意であり、あきらが笑顔であり、日傘が似合う女性であり続けることへの願いでもある。

だが、あきらは忘れなかった。

「忘れません!」「絶対絶対忘れませんッ!!」あの日、あきらは最後までそう言った。そして、今もまた。

「あの人だって、同じはず。」

過去の自分、その恐怖と対峙するという最大の瞬間において、あきらの想いは近藤と共にありました。

大好きなもの、あきらにとって最も打ち込む価値のあるものである陸上に身を投じている、まさにその瞬間ですら、あきらは忘れなかった。

近藤の予言を、そして、控えめな留保の解放の言葉を、打破した。

ならば、それは、近藤の、「橘さんと会えなくなるような気がする」という予感をも、否定するものでもある。

5巻34話の文化祭にて、あきらが「本当に好きな人がいるのに、あきらめて別の人のところへ行くなんて…あたしには考えられない。」と語った時に、ユイが興味深い呟きを漏らしています。

「何かが代わりになっちゃうなら、それは本当に好きって言えないよね…」

陸上の出来なくなったあきらは、近藤に出会い、近藤の下で、雨宿りとなる場所を提供された。恋心を知った。
ただ、それは、陸上の代わり、ではなかった。
だからこそ、近藤への恋心があっても、近藤のことを想っていても、あきらは陸上に戻った。
近藤への恋心は陸上の代わりではなかったから。
陸上が「本当に好き」だったから。

だが一方で、陸上に戻っても尚、あきらは近藤を忘れなかった。
陸上もまた、近藤への恋心の代わりとして、打ち込むものではなかった。
陸上は陸上、それ自体であり、また、近藤への想いも、近藤への想い、それ自体だった。

つまり、今も尚、あきらは。

信じる、ということ

別の人のところへ行くことは考えられない。そう宣言しているあきら。

そして事実として、今も尚、近藤の存在を忘れることを拒絶しているあきら。

そこから、あきらの真意、今なお抱いている想いは、そのようなものである、という可能性を想像することはできると思います。
ただ、その一方で、今この段階で、あきらの方から、近藤に再度近づこうとすることは、(今は)無いのではないか、とも思います。

何故なら、あきらは、近藤もまた戦っているのだ、と信じているから。

ならば、どうしてそれを、邪魔できようか。

かつて、「初めてのデート」にて、あきらは近藤への配慮無しに、ただ連れまわすことしかできませんでした。ただ、そこからの多くの時間の積み重ねを経て、あきらは近藤という人間を知り、相手を思いやることを知り、またその「勇気」をも知った。

なら、すべきことは、ただ、戦っていることを信じるだけ。

そして、近藤の願いの通りに、笑顔であり続けるだけ。

あるいは、笑顔で、待ち続けるだけ。

また、雨が降っても

近藤は、あきらに、日の当たるところへ進むことを、そこが似合う女性となることを願いました。そして、あきらはそうした。今も、そうしている。

そこが、ずっと晴れ、ということはないだろう。

最終話、少しだけ登場した吉沢が、楠教師に叱られた際、「こえ────な──…」という呟きを漏らしています。この時、吉沢は窓の中から、晴れた空を見上げて、この言葉を漏らしている。
この言葉は、叱られたことが「こえー」のではなく、将来が「こえー」という呟きなのではないか、とも思います。
将来への不安。だから進路調査票も出せない。
そして、「高3の夏はあっちゅーまに過ぎる」。

その先は、晴ればかりではない。
吉沢も、ユイも、はるかも、そして当然、あきらの行く先も、また。

それでも、近藤はあきらに、「青い夏の、雨上がりの空」が似合う女性であり続けることを願った。戦い続けることを願った。

だから、あきらは笑顔であり続けるでしょう。日傘ではない傘が必要になることがあるかも知れない。それでも、あきらは自分で傘をさすでしょう。近藤に頼ろうとせず、自分で戦うことでしょう。
そして、さらには……、傘が無いのなら、笑顔で、その雨を受け入れることでしょう。どんなに冷たく、辛く、厳しい雨であったとしても。

あきらは、激しい雨に打たれ、心の内で涙を流す時でさえ、あの笑顔を保ち続けるでしょう。81話のように。あの、ラストページの痛切な笑顔で、暗がりの中で、「もう大丈夫。」と言ったように。

あきらは、ずっと、「大丈夫」であり続けようとするでしょう。

もしも、あきらの想いがいまだ近藤にあるのなら。近藤が、「この男のほかに誰もいない」存在であるのなら。いや、だとすればなおさら、今はあきらから近藤に近づこうとはしないだろうと思うのです。

ただ、近藤の戦いの結果がどのようになるものか、待ち続けるだけ。

近づけない、否、近づかない。できることは、待つだけ。

呪いを受け入れ、ただ、待つだけ。

もしも、そうだとするのなら。

それは、そのままになってしまうのなら、一種の悲劇かもしれません。

ただ、近藤が、自身に呪いをかけるのは、自身の選択であり、他の誰の責任でもないのなら、やはり、あきらが、自身に呪いをかけるのは、自身の選択であり、他の誰の責任でもないのでしょう。

だから、何かが動くことがあるとしたら、それは近藤の側の何かである、ということになる。

いまだ、近藤のもとに燕は在り

いまだ小説を書き続けている近藤。そして、いまだに、あきらの手紙を読めずにいる近藤。

近藤は、近藤という名の下人は、既に門から離れたのでしょうか。それとも。

最終話、休憩中の近藤は、控室、その日の当たらない日陰から、空を見上げています。
そもそも近藤は、休憩の際は、つねに軒下に居ました。
あきらから告白され、でも、軒先から踏み出せなかったあの日と同じように。
そして最終話の、晴れた夏の日も、尚。

アニメ版の8話、あきらと近藤との「下人の勇気」に関するやり取りで、アニメ独自の、興味深いセリフが追加されています。

「俺は… たぶん盗人にはならない……」
「なれない、かな。」

この後に、こんなセリフが補完されているのです。

「俺が下人だったら、門の下でずっと雨がやむのを待っていると思う。」

「もしかしたら、雨がやんでも、その場から動けずにいるかも知れない。」3

最終話、晴れた夏の日、軒下で想いにふける近藤は、そんな「動けずにいる」近藤なのだろうか。

そして、近藤は、今後どうするのか。

彼女は、恋をしていた。青い夏の、雨上がりの空に───。

これは、近藤が書き続けている小説の一説、もしくは、そのラスト。メモ帳に書かれたその一節。
最終ページの2ページ前、近藤は呼び出されて、急いで引き出しの中にメモをしまい込みます。
そして、そのメモ帳と共にあるのが、「芥川龍之介全集 1」に挟み込まれた、栞の燕。

そもそも、近藤が小説を書き始めたのは、あきらから、京都旅行の栞を貰った時でした。
あきらから、「鈍った心を動かすパワー」を受けて、ついに動き始めた。

それは、今までの近藤とは、違う動機によるもの。自らの、今となっては最愛の存在となった女性から受けた力で、書き始めたもの。そして、燕の栞は、あきらの存在は、今も近藤に力を与え続けている。あきらが、今も近藤から力を貰っているのと同じく。

なら、今度こそ、近藤は小説を書きあげるだろう。この4、5年の繰り返しとは、かならずや、違う結果となるだろう。

そして、その時こそ、何かが動く可能性が発生する時なのではないか、と思います。

そもそも、栞の燕が近藤のもとにありつづけていること自体が、いまだ二人のつながりが、そういうものだという希望を示すものでもある。

近藤の小説は、あきらの存在に力を得て、書きあげたもの。当然、近藤の小説の中の「燕」は……、『彼女は、恋をしていた。』と描写された「燕」は、あきらそのものでもある。
なら、書きあがった小説を前にしたが、近藤が、いよいよ、あきらの想いを、手紙に込められた想いを正面から受け止める覚悟をする時なのではないかとも思うのです。

それは、近藤を想って書かれた「言葉」である。近藤の心を奪っていた存在からの「言葉」である。今も、執着を、想いを寄せている相手からの「言葉」である。「言葉」に常に真摯に向かい続ける近藤が、どうしてそれを無視し切ることが出来ようか。

そして、もし、開かれた手紙に、「あなたの言葉を読みたい」「あなたの小説を読みたい」というエールがあったのだとしたら。

近藤には、その小説を、書きあがった小説を届けるという選択肢しか無いのでは、と思うのです。

一つの戦いの結果を、あきらに届ける。あきらが、近藤の存在に力を得て、近藤への想いで、戦い抜いたのと同様、近藤もまた、あきらの存在に力を得て、あきらへの想いで、戦い抜いたのだ、と伝える。

そのことを知らせる、もう一通の手紙と共に、届ける。そういうことになるのではないか。

そして、それは、もはやラブレターそのものなのではないかな、とも思ったりします。

#少し話が脱線気味、深読み気味になりますが、この考察を書く前、「開かれなかった手紙」自体が、一つの文学ネタ方面のメタファーなのかなとも思いました。芥川龍之介方面、さらには、「それから」の著者である夏目漱石方面で。ただ、芥川龍之介、夏目漱石、それぞれ「手紙」と題した作品はありますが、あまりストレートに関連する話には思えませんでした。4ただ一方で、少し気になったこととして、この「芥川龍之介全集 1」が、筑摩書房のもの5かもしれないのですよね。文庫の全集なので。だったとすると、その「1」一番最後に収録されているのは、「二つの手紙」だったりするのですね。「二つの手紙」の内容自体は、とても何かのメタファーとは思えないもの6なのですが、このタイトル自体が、あきらから近藤に手紙が渡ったのと同様、近藤からもあきらにも手紙が渡ることの示唆だったりして…、などと深読みしたくもなってしまいました。

ラブレター、といえば、芥川龍之介はそのラブレターでも評判の作家だったりもします。

https://www.news-postseven.com/archives/20150513_321573.html

僕には文ちやん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思つてゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちやんが好きです。それでよければ来て下さい

近藤がここまで素直になれるかはわかりませんが、そういった言葉を、手紙であれ、直接であれ、やはりその時には届けて欲しいな、と思います。
互いに想いを寄せ合っていた、その事実を、やはりあきらに知らせてあげたい、知っておいて欲しい、とは思うので。そのことこそが、ずっと隠されていた、その事実を知ることこそが、至上の喜びであろうと思うので。
もちろんそれは、同時にその先の何かへ進むことを確定させてしまうものでもあるのですが。

でも、それでも、近藤にはその勇気を持ってほしいとは思ってしまいます。
それは、近藤の選択でのみ、近藤の決意でのみ為されること。
近藤は、「橘さんと会えなくなるような気がする」という予感を抱いた。なら、その予感を否定するのなら、最終的には、それは自分自身で、自分自身の意思で為さなければならない。

とかく、そういう訳で、近藤が小説を書き上げること、今回の小説を書き上げることへの「執着」があり続ける以上、やがて、その瞬間は来るのだろうと個人的には考えています。

そして、近藤が小説を書き上げたのなら、それは、伝えられなければならない。
もしも、あきらの願いが、あきらの願いの書かれた手紙が、そんな純粋なエールであったのだとしたら、それは、なおさら。
そして、その時こそ、「それまで”悪”だと思っていたこと」、すなわち、あきらの手紙を開き、その想いを受け止めることが、「生きるためには”善”となった」瞬間になるのでは、と思うのです。

前回記事を踏まえての疑問点など 恋雨面白いなぁ…(二回目)。という訳で、前回最終回予想関連の記事を書いた訳ですが、いくつかの補足や、その他...

「悪から善への大転換」はそのときかもしれない。

きっと、そういう意味でも「ハッピーエンド」になるのでは、と。

「季節が巡ったら、またお会い致しませう。」

その、誓いの通りに。

「続きを読みたいとも思いました。」/残された謎の意味

さて、以下は考察というよりも、メタっぽい話にもなってしまうのですが。
そうはいっても、やはり、もう少し明確に二人の「それから」が見てみたいと思うと同時に、明かされていない謎にも意識が行く部分はあります。

具体的な「謎」を列挙すると、以下の通りになるかと思います。

  • あきらと近藤の二人の今後は、どのようになるのか。再会は、そしてその先はあるのか。
  • あきらから近藤への手紙の中身は何だったのか。
  • 近藤はあきらに何を伝えたのか。
  • また、その言葉を受けて、あきらは何を思ったのか。

この辺りは、今までの考察で述べた通り、それが正解かはさておき、色々と推測が可能な部分ではあるかもしれません。(それでもやっぱり明確に知りたいな、と思う部分ではありますが。)ただ、次は、大きな謎として残っている。

  • 加瀬は何故、いつ、ガーデンを辞めたのか。
  • 珠子は何故、涙したのか。
  • 加瀬と珠子は、結局どうなったのか。

本編では、結局加瀬はあきらに殴られたのを最後に、退場してしまいました。ガーデンを辞めたことは示唆されているが、それ以外一切言及も、描写もない。もちろん、珠子の涙の理由も示されていない。(当然ユイへの謝罪フォローも無い。)

ここから見るに、何というか、これらが示されるような単行本、もしくはその他での追加が、何かしらあるのではないかな、とは思ってしまうのです。もちろん何の根拠も無い、ただの推測ですが。ただ、その可能性はあるのでは、考えてしまう部分ではあります。

#尚、サブキャラ方面では、ユイと吉沢は今後何もないのか? もプラスで気にかかる部分ではあります。吉沢は、8巻でユイを振ってしまって以降、一度もあきらに色目を使っていないのですよね。それどころか、むしろユイを気にしている。何かの意識が変化した、そういうことなのかも知れない。

そして、その可能性を踏まえると、加瀬と珠子がどうなったのか描写されないこと自体が、すなわち、仮に追加部分が存在するとして、その追加部分にて、あきらと近藤が「その先」へ行くことへ、具体的には添い遂げ方面の何かがあることが想像できるのではないかな、などとおも考えてしまったりもするのです。

というのも、加瀬と珠子が、とにかく、うまくいくことがあるとしたら、それこそが、日陰で、うつむく向日葵にて描写された加瀬、その加瀬の「光を見つけたって、誰しもが そこへ向かっていけるとは限らない」という加瀬自身の言葉が否定される瞬間であるからです。そして、それはすなわち、この作品最大の予言にして呪い、「絶対に」とまで重ね掛けされた、「君と店長はうまくいかない」という言葉が効力を無くす瞬間でもある。

加瀬と珠子について言及することこそ、あるかも知れない追加部分の、(もしくは、追加部分が存在しないにしても、)あきらと近藤の今後についての一種の「ネタバレ」となってしまう部分であり、故に語られない部分だったのではないか、などとも思ってしまうのです。

あきらと近藤という、本来は、本当に人生を重ねるのが難しいであろう二人が、一つの未来をつかみ取れた瞬間が、未来をひとつにすることができた瞬間が、そこにはあるのではないか。

本来は、実を結ぶ筈の無い花が、実をつけた瞬間(=徒花の実7)がそこにはあるのではないか。

そんなことを思ってしまうのです。

だからこそ、それこそ、アニメ版のあきらのプリントにあったように続き読みたいとも思いましたとはやはり思うところではあります。

やはり白状すれば、手紙の内容は知りたいし、近藤の最後の言葉は知りたいし、あきらと近藤が結局どうなったか知りたい訳です。近藤がちゃんと小説を書き上げたのかそれはあきらに伝わったのか、ということも、勿論。

本当に読みたいと思っています。はい。

恋愛漫画ではない、ということ

雑誌連載、原作最終話にて、結局明確なかたちであきらと近藤の恋愛の帰結は描かれてはいません。

作者、眉月じゅん先生は、インタビューでこう語っています。

http://top.tsite.jp/lifestyle/magazine/i/38437694/index

栗俣:なぜか、『恋雨』は結末というものが存在している感じがしないです。淡々と進んでいく日常を見ているという感覚で。

眉月:そうなんです。終わったとしても、その後に絶対に続いているはずですね。

あと実は、私は『恋雨』を恋愛漫画として描いていないんです。

栗俣:え!?

眉月:あくまで、あきらという17歳の女の子の生活を描こうと。17歳の生活って、部活・バイト・恋愛、なんですよ。あきらは、いま部活の方がフェードアウト気味で危うい感じ、バイト=恋愛になっている状況ですね。

恋愛の帰結ではなく、「あきらという17歳の女の子」の再起への挑戦の帰結が最後に描かれた。つまりそれは、そういうメッセージなのだろうと思います。

そもそも単行本での追加等があるかどうかまったくわからない時点で述べる必要があるかはわかりませんが、仮にそのようなものがあったとしても、それが雑誌で描かれなかったのは、それが「恋雨」という物語の本来の一部ではないから、ということになると思います。「絶対につづいている」その先は、既に別の話、と。

そして、本作は、そのメッセージ通りの、最高の最終回を迎えられたんじゃないか、そう思っています。いくつかの示唆で、他のことは想像できる。そして、あきらの物語が、最後まで瑞々しく描かれた。

ただ、それを踏まえても尚、「恋雨」はその名にあるとおりの「恋」のものがたり、恋愛漫画であったと思います。いや、まだ続いている、恋愛漫画である、と言うべきなのか。素晴らしい、一つの恋のものがたりを、見ることができた、と。

また、そのうえで、願わくば、やはりもう少しその、「絶対につづいている」先を見たいとも、願ってはしまいます。ええ、続き読みたいとも思いました」。幸せな、その続きを。

既に書いた通り、私自身は、あきらと近藤の先にあるものは、そういうものであろう、共にあるものであろう、と勝手に想像して勝手に受け取ってはいるのですが、やはり、実際にそれを見てみたい、という気持ちは強く感じてしまうのです。ええ、本気で願ってしまいます。

そんな訳で、ひとまずの感想レビューとしたいと思います。
また補足等書くかもしれませんが、ひとまずは、こういうことで。

とかく、このような素晴らしい作品を拝読させて頂きましたこと、眉月じゅん先生、及びスタッフの皆様に深く感謝する次第です。ありがとうございました。

2018/3/25 本件に関して補足記事を書きました。

以下の文章はどちらかといえば考察そのものではなく、ただの雑記のようなものです。 尚、以下、「恋は雨上がりのように」最終話(82話)、および...

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  1. 事務的なものはあったかも知れないが。
  2. もちろん、伏せられた最後のセリフがその方向であった可能性もゼロではないですが、その後の二人の経過から、ちょっと考えずらいかと思われます。
  3. おそらく内心の声
  4. 夏目漱石の「手紙」に出てくる手紙は、「くろうとの女性」のものからだったりするのですが、やはり方向性は違うものです。具体的に言うと、女性関係の遊びのだらしなさの証拠として出てくるものだったりします。)
  5. http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480020819/
  6. ドッペルゲンガーの恐怖におびえる男の手紙
  7. ちひろが芥川賞を受賞した作品名。おそらく、ちひろは、町田すいから「鈍った心を動かすパワー」を受けて、そこにたどり着いたということなのでしょう。

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