恋雨アニメ12話考察感想メモレビュー1/OPに示された二人の未来

第12話 つゆのあとさき

という訳で、恋雨アニメ12話「つゆのあとさき」を見た訳ですが。
とりあえず、考察メモということで、いくつかまとめておきたいと思います。
…といっても、正直色々と考察できるメタファー等が大量にある為、なかなかその全部に言及するのが難しい状態です。
という訳で、そのうちのいくつか、というか、「二人が今後どうなるか」に主に焦点を絞って、二回に分けて、ひとまず色々と考えてみたいと思います。

通じた「想い」

情愛を込めた抱擁。

二人が幻想のなかで抱擁を交わしたあのシーン。
考えるべきなのは、あれは、「誰の」イメージなのか、ということです。

「橘さん!」近藤の呼びかけに応じて、あきらは、迷いなく近藤の元に飛び込む。

「この瞬間迷わない 傘はいらない」

恋雨アニメOP「ノスタルジックレインフォール」の歌詞、そのままに。

その直後の描写から、これは、二人が視線を合わせた瞬間のイメージ。そしてこれは、つまり、二人がそれぞれ抱いたイメージ、という見方ができることになるかと思います。

だからこそ、その後の会話につながる(あるいは、直後の会話自体の、心理的な表現と言うべきかも知れない)

実際にそこであったこと。

近藤は、呼びかけた。あきらは振り向き、目をあわせた。

二人の間のやりとりは、たったこれだけ。
でも、これだけで十分だった、ということ。

私は、ここのシーンで、何となく、恋雨10話の「1文字手紙」が思い浮かんでしまったりもするのです。
あの時、二人は「?」「!」だけで、互いの気持ちを伝えた。

「友人として」 実にこう、恋する少女モードの「友人」…。 「お前のような惚れ顔の『友人』が居るか!」とかいう某拳士の言葉が聞...

「信頼関係ができてたから、たった一文字でも意思疎通ができたんだ」

このシーンも、そういうことなのではなかろうか。
声をかけ、目をあわせた。
ただ、それだけでも、互いの想いを共有した。
多少強引なのは承知しつつなのですが、でも、そう見えて仕方がないのです。

そして、あの映像が、二人が、近藤の言う「僕ら」が共に見たものだ、とすると。

いや、あるいは、あれが、近藤が主に抱いたイメージ、であったとしても。

実は、あの時、「アニメの近藤」、あのもう一人の近藤は、あの時、はじめて明確にあきらへの「想い」を自覚したのではないか。
そんなことも思ったりしています。

勿論、近藤はアニメ7話にて、「恋」と名づけることを拒否した感情にて、原作同様、そういう感覚を意識してはいました。ただ、その後、その気づきに関する描写は、ほぼ一切がオミットされていた、ということは言えるかと思います。だからこそ、12話の予告も「思う」だった。

ただ、実は、12話にて、その「気づき」の示唆はありました。

それもまた、もうひとつの「目をあわせた」瞬間。

この時、近藤は(あきらもだが)照れたような顔をしている。

二人は見つめ合い、こうなった。

あきらのことを「思って」いるだけにしては、少し不自然な表情とも思えます。

そして、かの、ラストシーン。目を合わせたあの瞬間の、あの抱擁。

あの抱擁が、近藤の想いが反映されていたものだとしたら。
近藤の元に飛び込むというあきらの想い同様、そのあきらを抱きとめ、抱きしめるというのも、近藤の想いなのだとしたら。

確かに近藤はあの瞬間、近藤はあきらの想いに「応え」、また自らも情愛を込めて彼女を抱いていた、ということになるのではないでしょうか。

「懐かしさだけで触れてはいけないもの」を、決意を持って、抱きしめていた。

それも、かの、台風の日の抱擁とはまた別種の決意で。

極論すると、原作、アニメ通じて、あれははじめての「相思相愛の抱擁」だったのではないか、と。

さて、ここでアニメOPの歌詞を見てみましょう。

雨上がり虹が掛かって やっと目があった
恋に鈍感なあなた、だから

シーンは雨上がり。まさにその時、目があった。
そして、近藤はとうとう、己の想いを自覚したのではないか。

そして、その、雨上がりに、恋をしている、と言っている。
恋が終わりではなく、始まっている。

あきらに雨が降っているうちは、恋は始まらない。

雨が上がり、傘を指す必要が無くなってこそ、初めて本当に目を合わせることができる。

「傘はいらない」その瞬間に、まさに、始まっている。

「恋」の始まった「瞬間」

「いつか、僕らそれぞれが、約束を果たしたら」
「教えます。すぐに。必ず」

ここ、重要なのは、「近藤の側から」呼びかけを行っているのですよね。

細かく見ると。

あきらは、

「橘さん!」の声に振り向き、

近藤から「約束を果たしたら…」の提案を聞いて、その意味を理解して顔を赤らめ、

そして、自ら微笑み、その提案に喜びをもって同意したことを、笑顔で示す。

「教えます。すぐに。必ず」

あきらは、近藤に呼応して、「想いが同じであること」を表明した上で、それに、同意した。

誓約は、成立した。

アニメOPに示されていた、「この瞬間」

さて、ここでちょっとそれを踏まえてアニメOPを見てみたいと思います。燕の出現の有無の違いなど、各話で違う部分もありますが、ここで見るのは後半。二人が、雨粒を模した「ハートのかけら」を合わせて、ハートを作り上げる部分です。

二人は「雨粒」を合わせてハートにする。

するとハートが輝き始め、

ハートが降り注ぐ中、二人は、「もう雨が降っていない」ことを確認する。

そして、近藤は、不要になった傘を下ろす。

何故なら、もうあきらを雨から守る必要は無くなったから。

それでも、ハートは、「愛」は降り注ぎ続ける。

「雨上がりに」~「傘はいらない」と歌い上げるパートと、この流れが重なっている。

ここのシーン、二人がそれぞれ、懐から雨粒を取り出し、それを合わせることでハートになる、というのも意味深です。

この雨粒は、おそらくそれぞれの「自分との約束」

近藤は語りました。

「約束をし直したんだ。しまいっぱなしにしていた約束を。」

「橘さんにもあるんじゃない? 忘れている自分との約束が」

それぞれが、「しまいっぱなしにしていた」「自分との約束」を取り出し、一つにする。

それぞれの約束が一つのハートとなって輝く。

それで、はじめて雨が上がる。

また、何よりも注目したいのは、このハート。

赤と青のハートが、重なっているのです。
この、「重なったハート」が出てくるのは、OPではここが初めてになります。
これを、「あきらの想い」と「近藤の想い」が重なった、という表現とみることが出来るのではないかと思うのです。

あきらを守る必要がなくなった。傘は下ろされる。そして、そこには「想いの成就」のみが残る。

「この瞬間」までは、すなわち、アニメ12話までは、あきらと近藤が一つの場所で身を寄せ合うには、「近藤が傘をさし、あきらを守る」という理由が必要でした。

そして、このラストシーン。

頭に手をやって、「雨に打たれた」ことを気にしつつも、微笑むあきら。

そして、事実を告げる。

「雨はもう上がります」

あきらをもう守る必要は無い、その事実を告げる。

そして、近藤もそれを受けて、傘を下ろす。

近藤は傘を閉じている。そして、あきらも自分で雨から身を守る必要は無い。

見つめ合う。真顔になる二人。

おそらく、近藤が自分の内心の「想い」に気づいた、そしてその気づきを受け入れたのは、この瞬間。

電話の邪魔、の意味

ただ、ここで何かを言いかけた近藤の行動は、携帯電話の着信で一度邪魔される。

それを受けて、あきらはしばらく待ってから、一礼して、離れる。

この行動、あきらは、「現在」の近藤の言葉を待ちつつも、それが得られないと判断したために、離れることを決めかけた、とみることもできるかと思います。

近藤は、もし留保を選ぶなら、そのままあきらを見送ることが出来た。

でも、近藤は呼びかけた。

「橘さん!」

一度は危うくなった絆を、自分の意志で繋ぎ直した。

あきらを、振り向かせた。

何故なら、既に想いは重なっていたから。

思うに、この近藤の呼びかけ、かなりの「勇気」を伴う行動だと思うのですよね。

それは、自分の内心にある色々なものを、素直に受け入れることを意味するから。

留保から、先に進んだ。

それは、想いが双方のもの、つながったものであったから。

だからこそ、そこで障害がうまれても、近藤は勇気をもって繋ぎ止めた。

そして、あきらもそれに呼応した。

この、「一度は邪魔が入るが、それでももう一度つながりを取り戻す」という流れ自体が、二人の「一度は離れても、もう一度未来を重ねる」ことのメタファーなのではないか、とも思うのです。

そして、そのメタファーを「取り戻した」のは近藤の側の行動である。

だとしたら、いや、だからこそ、二人がともにあり、笑うのは、想いが重なったから。

それが、「この瞬間」。

そういう意味だとも思うのです。

尚、そういう見方で考えると、12話の予告コメントもちょっと違う見方ができたりもします。

あきらは近藤を想い、近藤はあきらを思う。 二人の視線が交わった時、17歳と45歳がたどり着いた明日にあるものは・・・

「この瞬間」以前は、『あきらは近藤を想い、近藤はあきらを思う』だった。

そして、二人の視線が交わり、「この瞬間」が訪れる。

だとすれば、その先の「明日」は、と。

03:05:81とリスタート

さて、正直なところ、12話の冒頭部分、あきらがアラームを止めるシーン、初めに見たときは、意味がよく分かっていませんでした。

ですが、この件について、Victoria氏により一つの指摘がtwitter上であり、それに関してVictoria氏とrhb氏との間で興味深いやり取りが行われていました。

https://twitter.com/VinukaMary/status/979652757106970625

ここで指摘されていること。

ここに示されているのは最終話一話前、81話、3ページ目、5コマ目。

「下人の勇気」が示されたコマ。

そこでストップウォッチが押されている、時間が0に戻されている、ということ。
(尚、やり取りの中では、永井荷風の「つゆのあとさき」との設定の類似性についての指摘もなされています。)

つまり、そこから物語がリスタート、明確に新たな、別の物語を示す意図があるのではないか、という指摘がなされているのです。

非常に興味深いところです。

確かに、リセットを押された次のシーンは、近藤による小説「恋は雨上りのように」の執筆です。

さらに、その直後の近藤の小説、執筆している文字は

「君に出会った」なのですよね。

アニメ独自の「続きが読みたいとも思いました」のセリフも併せて考えると、ここから二人が「出会い直す」という意味合いがあるようにも思えたりもします。

メタメッセージ、別エンディング。

それを踏まえると、実は、繰り返し登場する「それから」がらみでも、ちょっと気になる部分があったりします。

恋雨の原作では、結局最終話まで、近藤のあきらへの想いは、(原作最終話時点では)伝えられることは無かった訳です。
そして、それはあきらを「思って」こその、選択でもありました。

そして、作中の事実として、それは「正解」でありました。

故に、原作雑誌版のラストで、あきらは微笑んだ。

一方、「それから」の中には、こんなセリフがあったりするのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/56143_50921.html

 三千代の調子は、この時急に判然はっきりした。沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又
「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。――
「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」

上の指摘を見てから、どうもこのセリフが気になってしまっています。

原作において、黙っていること。それはあきらにとって正解だった。ただ、それはあきら本人の心情としては「幸福」なものだったのか。

それがどんなに困難なものであったとしても、「伝える」先にある答えもあったのではないか。

そこの問い、そして問いへの答えのもうひとつのかたちを、アニメの二人は提示してみせている、のかも知れない。

「傍証」としてのユイの恋のゆくえ

ユイの恋の行方。

原作既読の方にはご存知の通り、漫画原作では(雑誌連載本編の範囲内では)ユイは吉澤に告白した結果、完全に拒絶され、結局最終回までそのままになっています。
一方、アニメ版では、明確なかたちでは描かれてはいないとはいえ、このまま前に進めるのではないか、といった描写になっています

興味深いのは、ユイの恋の行方だけでなく、「ユイが美容師を目指す理由」も、違ってきているところなのですね。

アニメで、ユイはこう語ります。

「自分の好きなことで、誰かが喜んでくれるのっていいなーって思ったの」

「それに気づかせてくれたのは…。最初に髪切った時、その人が凄く喜んでくれたから…。で、でも、本当になれるかどうかは分からないけどね…。」

アニメでは、その時の喜び、実感を、理由として挙げています。故に、あきらに対して、もう進路は決めている、と語る。

「ユイちゃんは、美容の専門学校に行くの?」
「うん、そうだよ」

ところが、原作で、美容師への決意を固めたのは、失恋の後。

ユイの姉に髪を切って貰い、同時に元気づけられた結果、ユイは決意を固める。

「美容師さんってすごいね! 本当に元気になっちゃった!」

ユイ自身が美容師によって元気づけられた。だから自分も美容師になりたい。

つまり、既に決意の理由からして、ユイもまた別人になってきている。

先ほどの、別エンディング、という指摘も踏まえて考えると、ユイもまた、既に「ずれ」が生じてきている、ということにもなる。

そして、もしも、アニメ最終話の段階で、ユイの恋がこのままうまくいく可能性が「残っている」のであるのなら。

そもそも、アニメ8話「静雨」にて、あきらはユイにこう語っています。

「(仲良く)なれるよ。どんなきっかけでも、それで少しづつ接点が増えたり、お互いのことを知る機会がいっぱいあれば、きっと、友情から恋愛に変わることだってあると思う」

この時、あきらは、表向きはユイを励ましつつ、心のうちでは、今までのあきらと近藤の間の交流に想いを馳せつつ、その恋愛の成就の可能性についても願いを込めて、そう語っている。

つまり、これは、そうあって欲しい、というあきらの願いである。

このセリフ自体は、原作本編にも同様のものがあります。

ただ、アニメの場合、あきらの言葉に被せるかたちで、複数の近藤との交流のシーンを挟み込んでいる。

ある意味、込められている「願い」の重みの差異のようなものを感じもするシーンです。

そして、その差異故か、結局原作では、ユイの告白は拒絶されたまま雑誌連載本編は終了しており、あきら自身の恋愛も、結末は描かれていないにしても、かの正月の一日についてはあのような帰結になっています。

だとすると、アニメのユイの恋が、「もう一人のユイ」の恋が、このままうまくいくのだとしたら。

それは、少なくともアニメにおいては、「あきらの願いは肯定される」という傍証としての意味を持つものなのではないか。

「それから」の意味/近藤が受け入れる「現在」、あきらが受け入れる「未来」

さて、ちょっとここで、アニメ本編で何度も出てきた「それから」についてちょっと考えてみたいと思います。

既にご存知の通り、アニメ10、11では、何度も「それから」が折に触れて出てきました。12話では、出現回数こそ減っていて、控えめなものではあるのですが、それでも相変わらず出てきてはいます。

「友人として」 実にこう、恋する少女モードの「友人」…。 「お前のような惚れ顔の『友人』が居るか!」とかいう某拳士の言葉が聞...
と、いう訳で、「恋は雨上がりのように」11話「叢雨」を見た訳ですが。 12話への助走という印象の強い回でしたが、いくつか注目したいポイント...

しかも、「栞の燕」もきちんとそこでに留まっている。

これを見るに、(次回記事で言及する「毒」の意味以外でも)「それから」に対して、何か強い意味付けをアニメ制作陣はしているのではないか、という推測も出来るかと思います。

たとえば、燕についてなのですが、このアニメOP。

ここでは、三羽の燕が戯れています。

一般的には、この三羽は、あきら、はるか、倉田みずきの三人を意味するのでは、という解釈が良くありました。

ただ、そもそも、アニメ本編では、倉田みずきは雑誌にしか登場しておらず、学校で「戯れている」訳ではないのですよね。

さらにいえば、「燕」はあくまであきら、もしくはあきらに随伴する「待たせた季節」の具象であるとすると、そもそも、残り二人がはじめ、すなわち第一話から「あきらと共に舞っている」事に多少の違和感も覚えます。

さて、ここで「それから」に目を転じてみます。

すると、「それから」本編で登場する燕は、合計三羽だったりもするのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/56143_50921.html

 代助は笑いながら、両手で寐起の顔をでた。そうして風呂場へ顔を洗いに行った。頭をらして、縁側まで帰って来て、庭を眺めていると、前よりは気分が大分晴々せいせいした。曇った空をつばめが二羽飛んでいる様が大いに愉快に見えた。

 代助は両手を額に当てて、高い空を面白そうに切って廻るの運動を縁側から眺めていたが、やがて、それがま苦しくなったので、室の中に這入はいった。

主人公代助が眺める先には、合計三羽の燕。

むしろ、この三羽こそがOPの燕なのではないかな、とも思ったりもするのです。

そして、それは特定の誰かを指し示すものではない。

それこそ、極端なことを言ってしまえば、あきらは、栞の燕、「それから」の中で舞う三羽の燕を地上から見上げる、いわば四羽目の燕であるのでは、と。

栞の燕が、かの三羽同様に空に飛び立つか、否か? と。

そんな意味があったりするのでは、などとも思ったりもします。

また、「それから」がらみで、アニメ本編とのかかわりで言うと、このシーンもちょっと気になる部分です。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/56143_50921.html

 雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨の為に、雨の持ちきたす音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からもばあさんからも切り離された。二人は孤立のまま、白百合のの中に封じ込められた。

主人公代助、ヒロイン三千代が雨によって完全に世間から隔離され、二人きりとなった瞬間。「それから」の有名なシーンですね。

言うまでもなく、このシーンで連想されるのは、アニメ三話「雨雫」の、雨中の告白のシーン。

「あなたのことが好きです」

このシーンで、BGMは完全に消え去り、音は雨音のみとなる。そしてその雨音すら消える。

この瞬間、あきらと近藤は世間から切り離された。

いうまでもなくそもそもこれは原作にあるシーンであり、また、原作では、当然、「それから」ではなく「羅生門」が作品の基底として存在しています。

「それから」もあきらが本を開くシーンはありますが、比重としてどの程度のものだったのか、というのは不明です。

ただ、原作のシーンへの関連の有無をさておいても、これだけ明確に「それから」を強調するアニメスタッフの人々の認識には、当然このシーンへの意識もあったものと思います。

(他にも、アニメOPで、複数の「花」が登場することも、案外「それから」への意識があったり、などとも思ったりもします。

細かいことを言うと、いわゆるデート回でも、あきらは「花」の髪飾りをつけていたりもするのですよね。次回以降、そのうち細かく考えてみたいとも思いますが。)

さて、その「それから」なのですが、主人公代助、ヒロイン三千代のあいだに、こんなやりとりがあります。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/56143_50921.html

「詫まるなんて」と三千代は声をふるわしながらさえぎった。「私が源因もとでそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」
三千代は声を立てて泣いた。代助は慰撫なだめる様に、
「じゃ我慢しますか」と聞いた。
「我慢はしません。当り前ですもの」
「これから先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」
代助は慄然りつぜんとしておののいた。
「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊――」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」
代助は又ぞっとした。
「このままでは」
「このままでも構わないわ」

三千代の考えはシンプル。どんな「変化」があろうとかまわない。今の気持ちが唯一重要なもの。

一方代助は、どこまでも「これからどうするか」を考えようとする。

この意識の違いについて、「“現在”だけを見ている女と、“未来”を見つめてその不安におびえる男」1の「覚悟のずれ」2がある、といった指摘もあるようです。

「現在だけ見ている女」と、「未来を見つめて不安におびえる男」、ある意味、あきらと近藤、二人の(序盤の)そのままの姿にも重なって見えたりしないでしょうか。

あきらはただひたすら、近藤に好意を告げる。

「人を好きになることに理由なんて要りますか」

「好きなんです…。店長のこと、好きなんです…。」

「あたし、店長のこと好きなんです!」

周りがどう思うか、とかではない。

援助交際と誤解されるとか、親子ほど歳が離れているとか、それは障害ではない。

「今」好き、それだけが理由であり、それだけで十分。

そして、だから陸上への引力にも戸惑う。

重要なのは「今」の近藤と(「今」のガーデンで)共に居られることだから。

陸上への引力に敗れれば、「今」の近藤を失うことになるから。

加瀬の指摘にもありましたね。

「楽しい事がまた消えてしまわないように」

「あの…、あたし、あの…」

「今」を失う恐怖故に、「今」動いてしまう。

「今」失われてしまうかもしれない、と恐れた瞬間、明日まで待つことすらできなくなる。

「良かった…」

「今」を失う恐怖故に、「今」否定されてないと分かっただけで、安堵の涙を流す。

それも、「今」を失う恐怖ゆえのこと。

卒業後だとか、そういう話ではない。

逆に言うと、あきらは、未来がどうなるか、を全く見ようとしていない。近藤の言う今後の問題、それをそもそも理解しようとしていない。そういうものが存在する、ということ自体を認めようとしていない。

だから、あきらからは、「付き合った先」の言葉は一切出てこない。多分考えてすらいない。

「今」が続くことだけで、すべては代替できると思っているのかも知れない。

これはもう推測でしかないのですが、この12話に至るまでのあきらだと、たとえば、近藤から「卒業後でもまだ気持ちがあれば必ず受け入れるから、今は陸上に専念したらどうか」というような提案があったとしても、拒絶していたのではないか、とも思ったりします。そのような器用な行動はとれない、常に「今」しかない。
というよりも、そのような提案があった瞬間、すなわち近藤の側にも気持ちがあると理解した瞬間に全く踏みとどまらなくなるのでしょう。すなわち原作で言うところの、「正月」の別の展開、となる。(本来は一番妥当にも思える、)恋愛と陸上を両立させる、などというものはもっての他、なのかも知れない。

一方、近藤は、世間的な常識等も抵抗の理由に挙げつつ、「デート」にて抵抗する本当の理由を、あきらを見つめつつ、独白する。

「周りの目だけが理由なんじゃない。何より、俺が傷つきたくないんだ」

近藤は恐れる。いつかの未来、あきらが離れる瞬間を。いたたまれなさを。その時負う、傷の痛みの恐怖を。

あきらという存在が素晴らしいものと認めている。かけがえのないもの、尊いものと認めている。だからこそ、護ろうともする。あきらが壊されること、侵されること、汚されること、それからは、全力で護ろうとする。

「なつかしさだけで触れてはいけないものを、今、僕だけが護れる」

触れれば汚すことになるから、触れることはできない。だが、それは護られなければならない。

だからこそ、恐れる。

それは、護る価値のあるものだから。それだけ尊いものだから。

だから失うことを恐れる。

そして近藤は、その恐れのあまり、「今」のあきらの気持ちに、心から向き合おうとしていない。「いずれかけがえのないものになる」というような一歩引いた言い方で、あくまで「今」のあきらの感情に対して留保の姿勢に留まろうとする。自分自身に生まれた感情を「恋と呼ぶにはあまりにも軽薄」として、それ以上の判断を行おうとしない。自分自身が「今」あきらをどう想うか、ということからどこまでも逃れようとする。

(原作では、その葛藤の果てに「俺は、橘さんのことが好きなんだ」と自身にとっての事実を認めつつ、自らだけが「心を奪われる」という選択を行ったのでした。)

もうすぐ最終回……、という訳で 恋雨面白いなぁ……。 来週には完結なんだよな、と思いつつ、せっかく久々にブログ更新をするので、ついでに最近...

どちらの気持ちにも理由はあり、どちらの気持ちも正しい。

だからこそ、この二人が未来を本当に重ねたいとともに想い、それを実現させる為には、それぞれの立場を受け入れる必要があるのでは、とも思うのです。

つまり、あきら(=三千代)は「未来」の価値を受け入れ、近藤(=代助)は、「現在」の価値を受け入れる必要があるのではないでしょうか。

さて、それを踏まえると、かのラストシーン。とても意味深く思えます。

携帯電話の着信によって、一度は断ち切られかけた二人の未来。

ですが、近藤は勇気を出して「現在の」あきらに声をかける。

彼女の想いを受け入れ、また自らも「今」あきらに想いがあることを認める。

一方、あきらは、「未来の」近藤に対しての再会を確約する。

二人の「それから」に進むのは、「未来」でも価値のある事だと認める。

近藤は「現在の」あきらを抱きしめる。

あきらは、「未来の」近藤の胸の中に「迷い無く」飛び込む。

だからこそ、あの、幻想の抱擁は実現した。

「今」見える、「未来」の抱擁が実現した。

まず、近藤が「現在」に対して勇気をもってアクションを起こし、また、あきらも、勇気をもって今ではなく「未来」での再会とすることを受け入れる。

相互が、相互を理解して、「今」/「未来」に対しての約束を行う。

これこそ、二人の未来が共にあることを示すもの、なのではないでしょうか。

そんなことを思うのです。

さて、後半はあきら、近藤、それぞれについてもう少しだけ考えてみたい、などと思っております。

という訳でまた続きを書きたいと思います。ではまた。

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  1. 浜野京子(1983)「〈自然の愛〉の両儀性」『漱石作品論集成第六巻 それから』桜楓社 p.148
  2. 漱石第一の三部作における現実認識の変化 ―主人公の現実認識のプロセスを中心に― 黃靖雅 http://hdl.handle.net/11296/5q323u

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